「においがわからない」――それは、感情の記憶を奪われるということ

こんにちは。鍼灸院ひなたの山元大樹です。

においは、ただの感覚ではありません。
朝のコーヒーの香りで一日が始まり、
好きな人の香水で胸が高鳴る。
お味噌汁の湯気で「家に帰ってきた」と思える――

においは、私たちの「記憶」や「感情」に結びついた、
とても繊細で、とても大切なセンサーです。

嗅覚障害は、五感の中で最も“軽く扱われがち”な不調ですが、
本当に失ってみて初めて、その重さに気づかされるものです。


嗅覚障害とは?分類とメカニズム

嗅覚障害にはいくつかのパターンがあります。

● 気導性嗅覚障害

鼻づまりや副鼻腔炎などで、におい分子が嗅上皮に届かない状態。
(慢性副鼻腔炎、アレルギー性鼻炎など)

● 嗅神経性嗅覚障害

ウイルス感染や頭部外傷により、嗅神経そのものが傷ついた状態。
(風邪やインフルエンザ、COVID-19、外傷など)

● 中枢性嗅覚障害

脳(嗅球や嗅索)に原因があるケース。
(脳腫瘍、神経変性疾患、てんかんなど)


コロナ後遺症としての嗅覚障害 ― 無視できない「長さ」と「重さ」

新型コロナウイルス感染症は、これまでにない規模で嗅覚障害を引き起こしました。

  • COVID-19患者の41%が嗅覚障害を経験
    (JAMA Otolaryngol Head Neck Surg. 2020)
  • 12.7%が3か月以上持続
    (オランダ・アムステルダム大学 観察コホート研究)
  • 特徴的なのは「鼻水や鼻づまりがないのににおわない」という訴え

原因は、嗅上皮や嗅神経の直接的なダメージ。
しかもこの障害は、“ただの風邪と違って”長く、深く残ります。

実際、「においがしない」だけでなく、「何かが腐ったようににおう」「煙のような幻臭がする」など、
**異嗅症(パラオスミア)や幻嗅(ファントムスメル)**に苦しむ方も少なくありません。


鍼灸ができること ― においの通り道と、神経の再起動

嗅覚障害は、実は「ただ鼻を通す」だけではどうにもなりません。
嗅神経という“再生しづらい神経”と、嗅上皮という繊細な受容体の問題が絡みます。

鍼灸は、以下の3つのルートからアプローチします。

① 鼻と副鼻腔の通気性を高める

  • 鼻通(びつう)、迎香(げいこう)、印堂(いんどう)などの局所ツボ
  • 鼻腔や副鼻腔の血流促進、粘液排出のサポート

② 嗅神経の再生と活性化

  • 鍼刺激による神経可塑性(ニューロプラスティシティ)促進
    → PMC 2022では、鍼灸によって嗅覚スコア(TDI)が有意に改善したと報告
  • 鼻腔周辺とともに、百会・上星・合谷・内関など脳血流や迷走神経に関わるツボも活用

③ 自律神経と体内環境のリセット

  • ストレスや睡眠障害が回復を妨げる大きな因子
  • 鍼灸は交感神経の興奮を緩和し、副交感神経優位の状態をつくる
  • 体内で“回復モード”を維持する環境づくりを担う

エビデンスは何を語るか?

鍼灸に対する信頼は、世界中で徐々に高まっています。

  • 2022年 ドイツの前向き対照研究
    → 鍼群ではTDIスコア(嗅覚機能の総合点)が偽鍼群より有意に改善
    (PMID: 35346226, PMC8897321)
  • 2024年 中国レビュー研究
    → 鍼灸+嗅覚トレーニング群が単独治療よりも嗅覚の識別・記憶・強度の項目で優位
    (ScienceDirect)
  • Mayo Clinic臨床試験中
    → COVID-19後の嗅覚障害に対し、鍼灸+嗅覚トレーニング+ステロイド洗浄を併用

東洋医学から見た「嗅覚」とは

東洋医学では、嗅覚は「肺」と「脳」に関係すると考えられています。
鼻は肺の開竅(かいきょう)であり、肺気が弱まるとにおいが通らなくなる。

また、脳を「髄の海」とする考えでは、五感は腎・肝・脾・心・肺の調和が生み出すもの
つまり、「においがしない」という現象は、
単に“鼻の問題”ではなく、身体全体のバランスの乱れのサインでもあるのです。


まとめ ― においとともに、記憶も人生も蘇る

嗅覚障害は、生活の質(QOL)を静かに、でも確実に削っていきます。

でも鍼灸には、“再生の余白”があります。
身体に備わっている回復力を引き出し、
神経に「まだ終わってないよ」と声をかけることができるのです。

においが戻ることは、
「自分を取り戻すこと」でもあります。

あきらめず、一緒ににおいの世界を取り戻していきましょう。